トマトは永遠のライバル

岡山県在住。うどんにコロッケを浮かべて食べています。日常や本、ムービーのことを書いています。

信号待ちにふと思い出したこと。

 数年前に、とつぜん馴染みのない生命保険会社から社用の携帯電話に連絡があったことがある。いわゆるヘッドハンティングのご連絡で、誰からの紹介なのか気になったが、興味本位で説明を受けに行った。その時点で津山に引っ越しています。

 生命保険会社に向いている人の性質、という話をしていたなかで「横断歩道で周囲に誰もいない状況だったとき、平気で赤信号を横断する人は採用しない」ということを仰っていた。ということはルールを守る人ということですか、と聞くと、まあそうかもしれませんね、と含みを持った笑い方をされた。私が赤信号で行儀良く待っていたところを実際に見たのですか、と聞くと、あなたはおそらく立ち止まるでしょう、と言う。「そうだ、あなたが見ていたとしたら、その時点で無人じゃないですね」と答えた。

 車が走行していなければ赤信号でも横断する、ことを選択する。これもう状況だと思うのだが、普段平気で横断している人でも、見知らぬ子どもが一緒に信号待ちしていたら横断しない、という判断をする人もいるのではないかと。ルールを破る大人だと思われたくないことと、真似されないように、とか。赤信号を渡ることを自ら許可するマイルールは人それぞれあると思うが、私は基本的にどんな状況でも立ち止まっているので、生命保険の社員の推測は間違っていない。

 でも走行車もないのに、どうして私は立ち止まっているのだろうと考えることはあって、そのときに意識してしまうのは自分の背中である。横断歩道を渡ろうと考えている自分の姿を背中あたりから見ている者がいる。それは先祖かもしれないし神様かもしれないし、幽霊かもしれないし、仏様かもしれない。そういう姿のみえない存在を意識すると「ここで渡ると、後で悪いことが起きそうな気がする」という考えに行き着く。こういうとき「信仰心」が、身体的にも思考にも深く入り組んでいるのだと感じる。

 この「ちゃんとしないと、なんだか悪いことが起こりそうな気がする」「ばちが当たりそう」という節制は、自分の考え方や身体のみだけで生まれず、かならず「死者・霊」の視線を想像し、自分の考え方に補助線を入れてから生まれる考え方なのではないかと。そう思うと「無信仰者」の存在は限りなく少ないのだろう。無信仰者であれば「悪いことが起こりそうな気がする」という予感自体ないのではないだろうか。

 その生命保険の社員も、もしかしたらそういうことを意識して、そういう言葉を使ったのかもしれない。ヘッドハンティングの話は、三次の面談のアポ調整の時に私がフェードアウトさせてしまった。やっぱり営業に歩合制が合わさったら地獄だと思うのだ。おわり。