トマトは永遠のライバル

岡山県在住。うどんにコロッケを浮かべて食べています。日常や本、ムービーのことを書いています。

2023/01/13(金)・14(土)なんで剣道やってるの?の話

2023/01/13(金)
 年始の稽古始めだから絶対に剣道場に行こうと朝から意気込んでいました。なぜかというと全然行けてないから。
 夕方、パソコンを終了してコートを着て「お先でェーす」とカバンを持った瞬間、ちょうど私宛に電話が来て、それが重要事項だったので腰を据えて夢中で話して会社を出たら狙っていたバスが行ってしまいました。一本先のバスで家に帰ったけど、胴着に着替えると練習が終わってしまう時間だったので、せめて見学と挨拶だけでも…と仕事着で道場に行きました。

 岡山市に引っ越してから通っている道場で稽古しているのはおじちゃんばかりです。けれど道場主の先生含めた「おじちゃん」は、すごい経歴の人たちらしく…というか来ている「おじちゃん」は全員指導者なので、先生と先生が稽古しあってそこに大先生が上座で見ているという先生インフレーションが起こっている異世界のため、ただの会社員(雑魚)は立ち入る前から萎縮してしまうんですよ。
 稽古が終わって「先生、今年もよろしくお願いします!」と頭を下げると「長期的にがんばりましょうねー」と言ってくれて、「土曜なら日本剣道型教えられますよ」と心遣いをいただきました。じゃあお願いします…!と、明日の予定が決まりました。

 

2023/01/14(土)
 剣道は高校生の頃「あれッ?」ということが何度もあり、高校二年の冬休み頃に「下手だし死のう」ととっても自然に思っていたことに気がついて退部しました。実家が飛び降りできるマンションでなく田舎の一軒家で良かったと思うのですが、それから「竹刀が重くて持てず、声が出ない」類いの夢を長年見続けていましたけど、偶然、営業先のお客様から剣道の話を聞くうちにやる気になってやっと胴着を着るようになっています。一回稽古したら夢も見なくなりました。


 考えるだけ不毛なのですが、もし高校の頃、高校三年の夏まで部活を頑張って普通に引退していたら、もう一生剣道やらなかったと思います。だって「頑張って苦痛に耐えた、私エラい!」だけの思い出になりますから。「また剣道したいですか?」と聞かれたら「あんなキツいのもうやりませんよ笑」と答えているはず。「弱さと狡さ」を宙ぶらりんにしたまま退部して「自分の弱さってなんだったんだ…?」と一〇年間悶々としていて、そろそろ自分がなぜ弱いのか知っておかんとな、と竹刀を持ち始めることができたんだと思います、たぶん。(もちろん当時の部員と一緒に引退できなかったことに今も引け目はあって、あと当時の関係者や先生には極力会いたくない。)

 

 去年から剣道を少しずつ再開して、先生から「神田サン、ああしなさいこうしなさい」と指導をされて「はいぃっ」と聞いて実践のくり返し。この日は日本剣道型の小太刀をやったのですが(タイマン指導ですごく贅沢)、わけわからないまま身体を動かしたぶんだけ、さっきまでできなかったことが出来ていく不思議さを感じます。最初は「なぜこういう動きになるんですか」と理屈求めがちだったのですが「まァいいからやってみなさいよ」と先生は全然答えてくれないので、わけわからないままやっているのですが、「これをこなしたら、こういう学びがあります」とは違う「何を学んだかは、あとになってわかる」という感覚が楽しいです。たしかに剣道は「これをn回こなせばxキロ痩せます」のような対価型じゃないですよね…、ここに来るまで消費者マインドだったことに気がつかず反省しました。
 ここで「先生」って何度も書いているけど、この年齢になっても先生がいるのも幸運なことだなぁと思います。

「SLAMDUNK」とか最近買った本とか

2022/00/00

 マンガ「SLAMDUNK」の映画が初公開された日。「新作に金を払える喜びを噛み締め、長い間胡座をかいていた膝をパチンと打って腰痛をものともせず立ち上がり映画館へ流れ込む古(イニシエ)のファン達が一体何百万人いるのだろう」と少し遠くから傍観する気持ちでいたけど、これまで4回コミックを買い直して井上雄彦さんの印税に貢献してきた私も例外ではなく、この映画のために2回映画館に足を運んだし3回目に行く予定をたてた。

 映画の一篇はすべて「マンガ」に収まっているようにみえて、OPのドローイングで、この作品は映画ではあるけど前提マンガであることのメッセージだと受け取る。「言葉どおり平面のマンガを立体に近づけて、かつ映像化させてキャラを動かす、これをやろうと思って、本当にやってしまいました」と伝えられたような。そうやって新しい方面での「マンガ」を作ることのできた漫画家は井上雄彦さんの前にはいないのではないだろうか。

 アニメーションの自由な演出でよくある時間を止めたりスローにする箇所は全篇に全くなくて、ある意味ではリアリティな試合を魅せていたけれど、マンガ原作のかい摘んだところにあるユーモアなコマも盛り込んでくれていて(「もしかして、天才?」のところとか、シュート決めた後挑発するところとか)、それがシラっとならない塩梅であって、ただただキャラクターたちが生きていて愛しい…。

 あと、思いついたことをそのまま書き連ねていて恐縮だが、海南大付属高校のメンツの気配がところどころにあって、私が好きな4番の牧紳一が存在する世界軸だと思うだけで本当たまらなかった。なんかあれ、恋してるけど遠い存在だから遠くで見るしかできず、同じ空間で息吸えるだけで満足なんです・・・のアイドルファンがライブ会場に行ったときの無我の境地みたいな感覚に近い。これ私の言っている意味わかる?

 挫折して自傷気味だった三井寿(顔が良い)の履いている靴がよくあるコンバースだったこと、「サラサラロン毛が気に入らねえ」と宮城リョータの三井に対するセリフを聞いた瞬間に「三井って髪質サラサラなんだ…」と、多くの新しい設定もわかり、SLAMDUNKの解像度が高まりました。あと山王工業高校沢北栄治のエピソードも良きで、気に入っているラストのセリフにグッときました。

 

2022/00/00

 本屋の新刊コーナーに遠藤周作の初期エッセイ「フランスの街の夜」があったので購入。なんか最近よく本屋の目立つある場所にあるな、と思っていたら今年生誕○年のようなきりのいい年のようで、いろいろ短編を中心とした新刊が出てるみたい。このエッセイまだ全部読んでないけど、読み進めていくと愛とか情熱について言及しているところが多数ある。西欧では典型的な男性理想の女性像は精神面では聖母マリアであり美的面ではヴィーナスであるが、偶像崇拝が薄い日本人はその基準的な理想像を持っていないので理想的な恋愛を掴みにくい状況である、とか、日本人クリスチャンの目線で書いてあって、へえ、と思った。

 あと大学入試の現代文では「文章の味」でなく「文章の意味」ばかり求める出題ばかりだと苦言していて、そもそも問題文がきたないからオイ出題者まずそこに注意をはらえ、と何度も書いてある。出題文章に多用されていたらしいから余計そう感じていたんだろうね。

 

 

2022/00/00

 ものぐさな女なので同じ洋服を何度も着てしまっている。気がつくと3年以上同じ服を着ていたので、これはかえって私の横を歩く人(不特定少数)が恥ずかしい思いをしているのでは、ということでコート含む冬服を新調した。ファストファッション店は種類やカラーが多すぎて自分で選ぶと毎回大失敗するので、毎回アパレル店員に一通りコーディネートを提案してもらって購入するようにしている。絶対に自分では選ばない服を試着して、生地の肌触りとかシルエットを確認しながらああだこうだ感想を伝えるので買うまで時間がかかるのだが、選んでくれた洋服は大抵買うので店員の売り上げには少額だけど貢献しているつもりで、その滅多にない金払いの良さは何に起因するのかは、洋服代というより親切な店員さんへのお礼の気持ちである。

 華やかな色の服に憧れて今まで何着か着てきたけど、なんだか着せられている気がするしウケないので、最近は「この服を着て気分上がるかどうか」と考えながら服を買うようになった。何かの本の受け売りだったと思うけど、そのとおり服を選んでいくとその日のテンションというか勝負度が↑↑な気がするので、そういった選び方をしている。すると家にある服がモノトーンやブラウンなど地味な色になった。自信が持てるというか、単に自分で見慣れているからその色を選んでいるのかもしれない。だけどフェミニンよりマニッシュめいた服のほうが好みで、なんとなくそっちのほうが「ぽい」ので、そこは自分の好みに寄せていこうと思った。

 

 

最近読んだ本とかマンガとか

2022/00/00

 マンガを読むとき、絵の線の太さやフキダシの形まで凝視する癖があるので内容がさっぱり頭に入らず、読了まで時間がかかり、眼も疲れるのであまり数を読んでこなかったのですが(マンガを楽しく読むのって、ある程度の勢いが必要というか、作者も勢いで読めるようにコマ割りや筆致を配慮しているはずなので、私の読み方はその解釈のうえでは正しいと言えない)、若い男の子が頑張っているマンガを突然読みたくなって「呪術廻戦」を一気買いして読み始めました。本屋に並ぶマンガの表紙のビジュアルが一番「少年っぽかった」だけの理由で買ったのですが、内容もちょうど私が求めている「少年っぽ」さがあって面白く読んでいます。やっと十七巻まで読めたよー。

 で、このマンガも線の強弱が激しいので、筆致をガン見しているうちに一冊読み終えるのに90分以上かかるわけですが、それなりに時間をかけて読むうちに作品自体に愛着が出てきて、そしてとうとう一人のキャラクターに思いを馳せるようになってしまいました。あるキャラクターにピーンときたと思うと、そのキャラが気になって気になって仕方がない。ここまで気持ちがざわついてしまうのも久しぶりで、目の前に紙とペンが目の前にあったらとんでもない創作物を生み出しそうな切迫感で、ほんとうにカルチャーは恐ろしいですねえ。

 

2022/00/00

 休日は自宅に籠城する筋金入りの引きこもりなので、用があって外出するときは目的さえ達成したら寄り道をせず自宅に引っ込んでいます(冗談だと思う人がいるのですが、ほんとうの話です)。別府に住んでいたときは周囲が活発だったからよく家から引っ張り出してくれたけど、最近はそういったこともなく、家で気楽に養生しています。

 その日は猛暑だったのですが、手持ちの本が心許なかったので、本屋さんに出かけました。残業で本屋さんが閉店するころに会社を出ることが続いたので、気がついたら読みたいと思う本が家になかったのでした。

 駅構内の本屋に繰り出し、そこに検温器があったので手の脈あたりをかざすと「HI」というデジタル文字が浮かび「気さくな挨拶をするのだな」と思ったけど、体温が37.8度以上の「HI」という意味であって決して挨拶の「HI」ではないと気がついて、猛暑で皮膚に熱を持っていたのかーと思う。ここでは向田邦子さんの再編エッセイが並んでいたので購入。ほんとうは『高慢と偏見』を買いたかったのだけど、いくら探してもなかったので別の本屋さんへ移動しました。

 別の本屋さんに移動して『店長がバカすぎて』と最近売れているらしい本を買う。この本は一章だけ読みましたが「つまらねえ本読ませやがって」という感想で、もしかしたら終章に向けて面白くなるのかもしれないのですが、今のところは本棚に積んでいます。『高慢と偏見』は結局家に帰ってアマゾンで買いました(新潮文庫から出ているのを買ったので『自負と偏見』と和訳されたタイトルでした)。

 

 

 

2022/00/000

自負と偏見」を読み終えて、あとがきを見るとなんと200年以上前の作品だということを知って吃驚しました。500頁以上あって読み応えもあり楽しんで読みました。教養ある主人公、高貴なヒーロー、狡猾な人、トラブルメーカー、身分問題、結婚、こういうの「LINEマンガ」や「小説家になろう」の異世界ジャンルに死ぬほど溢れている設定だよなあ…と読みながら考えていたのですが、今も昔も物語を楽しませる要素は変わらないのだなと思いました。そして多くの読者もその設定に安心して沼れる。私も然り。

 

2022/00/00

 ふと思い立って夏目漱石の「坊っちゃん」を読みました。明治とか大正とかに出された名著は時代の感覚や知識がなさすぎて読み進めないまま積んでしまうことがほとんどなのですが、これは注釈頁を往復しながらなんとか面白く読めました。赤シャツと野太鼓が坊っちゃんに聞こえるような声で「あの松の形はターナーの絵のようですねえ」「そうでげすねえ」と会話していて、「ターナーとは何のことだか知らなんが聞かなくても困らないことだと思った」と言うところに、教養人や学歴人間に対する皮肉めいたものを感じる。

 本をよく読んでいたのは金もなく暇をもてあましていた大学の4年間で、その頃は「人生で読める本は限られている」という変な気迫があり(周りの人がたくさん本を読んでいたのも理由としてある)、名著といわれている小難しい本もまあまあ積極的に読んでいました。岩波から出ている大江健三郎の短編集は、内容が意味不明だったのですが手元の読了メモを見ると読んだことになっているらしい。そのほかもいろいろ読んでいるみたいなのですが、正直もう10歳待ってから読んだ方が良かったなーと思います。そして夏目漱石は、じつのところ教科書に載っていた「こころ」と、短い「文鳥」くらいしか読んでいませんでした。「三四郎」は読まずに新品のまま売ったし。…また機会あれば読んでみたいと思います。