トマトは永遠のライバル

岡山県在住。うどんにコロッケを浮かべて食べています。日常や本、ムービーのことを書いています。

2024年12月31日(火)小津監督に関して「ぼんやり輪郭だけ」をなぞる話

■まず、映画に関する「個人的な」話

 大学3年生の頃から映画をぼちぼち見始めて、当時はマジでお金がなかったから主に大学図書館で映画を視聴してました。飲食厳禁のストイックな視聴環境だったので、150分を越える映画は「長い…」と若干イラつきながらみてたかもしれません。

 

■小津監督の映画について「ぼんやり輪郭だけ」をなぞる話

小津安二郎1903年~1963年の生涯で54本の映画を撮った映画監督。
1903年12月12日~1963年12月12日という、完璧すぎともいえる60年の生涯である。
◯「モノクロサイレント」「モノクロ有声」「カラー有声」と技術が進化していった、そのすべての変革のなかで小津は仕事をしている。
◯作られた時期は戦中がほとんどで、戦後から1年に1本のペースで映画制作していた。
◯2月に天神山文化プラザで上映されるのは「モノクロ・有声」「カラー・有声」から選ばれた戦後の作品。
◯モノクロ映画が『麦秋』と『東京物語』。
◯カラー映画が『彼岸花』と『秋刀魚の味』。

 ところで私、小津監督の映画は一度ご自宅で見てほしいなと思っているんです。あんまり押しつけがましいこと言いたくないので、ここから言うことあんまり気にしないでほしいんですけど。この選ばれた上映作品4本のうち3本は、起承転結の括りでいうと大体おんなじ話だったりするんです。一言でいうと「嫁入り前の娘が結婚する話」なんですけど。保守的と指摘されればそうなのかもしれません。そうしたなか小津映画には一種の特徴というものがあって、それが「登場人物同士が私たちには理解できない固有名詞を使って会話する」というものがあるんです。
 最近、SNSで「考察」っていうのが流行ってるじゃないですか。感動するよりも先に「自分の考察」を発信して、それが作品と作品エピソードと、周辺の反応との整合性がとれて初めて「だから私は感動したんだっ」ていうタイプのやつ。私それを見ると「感動することが苦手になってしまった人が増えたんだな」って思うんです。うかつには感動できないくらい、世の中が大変な仕組みになっているとでも言えばいいんでしょうけど、感動できる余地がもうなくなってきちゃったようです。
 感動って「自分の感情が制御できない状態」で、世の中に対して無防備になってしまうからやっぱりヤバいことであって、それで感動を放棄する人だっていたりはする。でも世の中そういう心がけ関係なく、準備のないまま不安になる感動を突然味わってしまう。それでその不安定さをどう処理しようかを考えるのが人なんだと思います。ドラマ自体に感動できずに論理に感動する人って、たぶん感動の中にある“訳のわからなさ”をどう処理したら良いかわからなくて、論理とか理屈とかいう実用的なものを求めるのではないでしょうか。
 考察する人がどう思っているかはわからないですが、たぶん「わあ、役に立つ!」といって感動しているんだと思います。「ここには確かに“こうしたら良い”と書かれてる。これでもうわかった」って感動している。そしてそうそう具体的な論理でもないから、時間が経って「感動したはずなのに、変だな…」って、抽象的な論理としてはかわいそうとしか言いようのない理由で忘れられてしまう。
 だから、うかつに感動したけど、それをどう処理したらいいかわからないなんていう状況が多かったら困るから、まあ生活してるとボンクラなくせに処理だけは上手い人もいたりするんですが、たぶんそういう人はこれ読んでないと思うので、続けるんですけど。
 感動して不器用になった状況で、精神的に不安定でも、じー…っと耐えて、その感情を処理して且つ腹に落とし込める人が「勇気ある人」なんだと私は思っちゃうんです。この処理のプロセスも誰にも説明できないことだったりするので、大変な孤独な作業になるんだと思いますが…。

 で、小津監督の映画の話が進まないんですけど、「登場人物同士が突然理解できない固有名詞を使って会話する」話でしたっけ。

 今回上映される、とくに『麦秋』はほかの上映作品と比べても音声が悪くて聞き取り難いから、できればご自宅で、プライムビデオで配信されてるから日本語字幕をつけて視聴するのを勧めます。自宅でワンクッションして慣れてほしいという意味が強いです(『東京物語』と『麦秋』はプライム配信してます)。
 で、字幕を付けると余計に気になるのが、人物の会話のなかで、決して映画には登場しない固有名詞を使った会話の場面がちょこちょこ入ってくることです。
 あるときは旧友の嫁入り先の家庭状況だったり、あるときは学生時代の思い出話だったり、場面自体は穏やかなシーンではあるのですが、この固有名詞に関する補填のなさに、小津映画に慣れてない人は少し戸惑ってしまうのではないかなと思います。
 言ってしまえばこれらはストーリーには直接関係のない会話です。旧友同士にしかわからない単語があることで、彼らの親密さや付き合いの長さを暗に含ませている、くらいで最初は聞き流しても問題はないです。
 ただ、伏線回収に喜びを感じてしまう人は特に、こういった「理解できない会話」の場面に深い意味を探そうとすると、ただでさえ平坦に見えてしまう映画の主ストーリーを見落としてしまって、さらには見落としたことにも気づかない目も当てられないことになるので、最初はそこまで気にせずいたら如何かと。というより伏線を潜ませて、暗に気づかせる演出をする映画が親切すぎるのですが、これも消費者に対してのアンサーなのかも。40年~60年の映画はあまり説明的すぎる台詞は入ってこないです。